【小説】エフェメラル

神乃

【小説】エフェメラル

百合SSAdvent Calendar 2025 投稿作品 #ココアシガレットキス

エフェメラル

 ベランダへと通じる窓から先輩が部屋へ入ってくる。一拍遅れて入ってくる夜の風は冷たくて、この先12月、1月、2月……ともっと寒くなることを考えると憂鬱ではあった。しかし暖房でもたもたと停滞していた部屋の空気をさらって、髪へ空気を含ませるように冷たく首筋を撫でていくのは気持ち良くもあった。なにより先輩は冬の夜の澄んだ冷たさを纏うのが似合う。先輩のために作られたような風だった。そして、先輩の好きな煙草の匂いがした。

「自分の部屋なんだから、好きに吸えば良いと思うんですけど」

 私はソファから、ノートパソコンでゼミの発表資料を作っているふりをして、先輩の一連の動作を眺めていた。先輩の部屋のソファはすっかり私の定位置のようになっている。

「吸わない人の前で吸うのは、ちょっとね」と言いながら先輩は窓の隣にある机の上に灰皿を置く。おそらくそこが定位置なのだろう。積んである本や印刷したレジュメの紙の空白に、片手サイズの陶器の灰皿は違和感なく収まった。先輩は冷蔵庫からビールを取って来て、通りすがりに片手で私をわしゃわしゃと撫でてくれる。そのまま机へ戻って椅子に収まると、そのまま卒論の作業を再開した。

 先輩は私の前で煙草を吸ってくれない。

 先輩は私を子ども扱いしているのかもしれないが、とうに成人している。ゼミの飲み会で先輩と一緒にお酒を飲んだ。煙草は何度か吸おうとしたことがあるし、先輩から一本わけてもらったこともある。口に流れ込む煙は何が美味しいのかも分からなかった。火が顔の傍で燃えるのも少し怖い。意味が分からない。

 それでも先輩が吸っているところを見るのは格好良くて好きだった。ほんとうは隣で見ていたいのだけれど、私がベランダに出ようとすると先輩はいつも手だけで追い払うような気だるげなジェスチャーをした。先輩の伏し目がちな目で見つめている火には魔法がかかっていそうだった。きっと何か考えているのだろうが、私にはそれが見えない。夜の海の底のようだった。分かりたかった。

 座っている先輩に後ろからすり寄るように抱きつくと、先輩は手を止めて「煙草くさいから、よらないでよ」と避けるように身体をそらせながら、私のことをまた撫でてくれた。

***

 私が髪を切ったのは、先輩から久しぶりに部屋に来ても良いと連絡があって舞い上がったからではない。丁度微妙になってきたし年内に美容院へ行っておこうと思ったからだった。新しい下着を買ったのは、特に特別な意味があったわけではなくウィンターセールだったからだ。

 煙草を買ったことには、ほんとうに特に意味がなかった。クリスマスも近いからケーキを買っていこうと思って、その延長線上だった。コンビニのレジの前で、“レジに並んではいませんよ”という顔をして店員さんにも他のお客さんにも邪魔にならないような微妙な場所から、先輩のいつも吸っている煙草を探す。名前は分からないけれど、パッケージのデザインは分かる。青緑で……見つけた。レジに並んで番号を伝える。ケーキ、クリスマスのパッケージのろうそく、ライター、そして煙草。

 コンビニの喫煙所でそのままフィルムを破いて煙草を咥え、買ったばかりのライターをレジ袋から取り出す。駐車場は薄暗くなり始めていた。フリントを何度か回して、なんとか火がつく。使い捨てライターは硬くて苦手だ。息を吸いながら、煙草に火を付ける。今まで普通に吸っていたはずの息は、煙が混ざっただけで急に嫌な重さになる。危険を感じる身体の機能が、ビカビカと点滅する感覚がある。すぐに吐き出して、何度か呼吸をする。空気に混ざる煙は先輩の煙草の匂いとほとんど同じだった。しかし何かが足りない気がする。それは夜の匂いかもしれないし、或いは先輩の香りかもしれない。我慢してもう一口吸ってみるがやっぱりだめで、今度は咳き込んでしまった。銀色の灰皿に押し付けるように火を消して、穴に捨てる。これで火が消えた、はずだ。多分。煙草の箱をポケットに入れる。分泌される唾液が苦くて、飲み込んでしまったが大丈夫なのか不安なまま喫煙所を後にする。先輩はなぜこれを平気な顔をして吸っているのか分からないし、なぜ吸いたくなるのかも分からない。

 コートやお気に入りのシャツに匂いがついたら良くないのかもしれない。しかし先輩と同じ匂いになれるのなら、うれしい。煙草を吸う間は持て余していたケーキのレジ袋を左手に持ち直して、私は先輩の住むマンションに向かった。風が冷たい。呼び鈴を鳴らすと、先輩がドアを開けてくれる。

「お久しぶりです!」

「よく来たね。まだ少し散らかっているのだけれど」

 先輩の部屋は、ずいぶんものが減ったようだった。生活用品はそのまま残っているが、何かが足りない。しかし何が足りないのかすぐには分からなかった。代わりにいくつかの段ボール箱が部屋の端に積んであった。

「卒論、おつかれさまでした! じゃーん! ケーキ買ってきちゃいました!」

 会えなくてさみしかったです、を飲み込んで、陽気にケーキを掲げてみる。

「ありがとう。夕飯のあとで食べようか。」

 先輩がケーキを冷蔵庫に入れてくれる。そして少し気が抜けたような声で言った。

「卒論ねぇ、なんとか終わったねぇ。あとは年明けにゼミの発表と、口頭諮問だけ、かな」

「発表たのしみです」

「今まで見てきたのと変わらないよ」

 話しながらコートを脱いで手を洗い、少し念入りにうがいをした。そして、定位置のソファに収まる。よく見てみると机の上の本や紙の束はすっかり片付いて、灰皿だけがあった。先輩が引っ越してしまうし、卒業もしてしまう。少し先のことなのに急に実感が湧いてきて、先輩が夕食のシチューを作ってくれている間ずっとそわそわしてしまった。

 シチューを食べて、冷蔵庫からケーキを出した。数日早かったけれど、クリスマスパーティーみたいだった。私はクリスマス・ソングを歌って、先輩は蝋燭に火をつけてくれた。いつも煙草とセットなライターが、ケーキの上に火を踊らせる。慣れている人の火の付け方だった。きっと先輩は花火に火を付けるのも上手だろう。夏になったら一緒に花火をしたい。先輩が引っ越した先にだって、ケーキや花火を持って押しかけよう。蝋燭の火を吹き消したら、ケーキは一瞬で消えてしまった。使ったお皿を洗いながらポケットに入れっぱなしだった煙草を思い出した。

「先輩」

「なあに」

 椅子に座っている先輩が本から顔をあげて応えてくれる。私は手を拭いて、ポケットから煙草の箱を出した。「煙草、いりませんか」

「クリスマス・プレゼント」

「や、プレゼントは別のをちゃんと渡させてください。今日なんとなく買って、やっぱり美味しくなかったから。手をつけちゃったんですけど、それでも良かったら……」

「ありがとう。もらおうかな」

 先輩は片手で箱をもてあそびながら、「メンソールにしたんだね」と続けた。

「ちがうんですか?」

 先輩の煙草と並べてみると、私の買った方は緑色で、先輩のは海の底から見上げたような深い青だった。

「全然スースーしなかったし、煙はおんなじような匂いだと思ったんですけど」

「カプセルは潰した?」

「カプセル?」

「ほら、ここ、噛んでみて」

 先輩は煙草の吸い口を私に向けて、丸いマークを指す。そのマークのあたりが歯に当たるように咥える。「大丈夫だから、もう少し強く噛んでごらん」優しい少し低い声で先輩が言う。

「もっと」

 もっと? メンソールカプセルが、ぱちんと潰れる。私は歯を離してしまいそうになった。メンソールの清涼感が口に広がる。煙の苦さもなくて、少しだけ枯れ草のような匂いだけがする。

「これ、美味しい、かもです」

 「そう」と、先輩は少し驚いたようにささやいた。「吸ってみる? 要らなかったらもらうけど……」と先輩が言い終わらないうちに私は「吸ってみたいです!」と言っていた。

「おいで」

 先輩がカーテンをひいて、窓を開ける。部屋の中で火を使うのは、悪いことをしているみたいだ、と思う。蝋燭のときは思わなかったから不思議かもしれない。先輩はケーキのろうそくと同じように、慣れた手つきでライターに火を灯した。

 先輩の手で火をつけてもらうと、まるで魔法のようでドキドキした。しかしやっぱりただの煙で、むせてしまう。苦しい。先輩は私の手の煙草をすっと取ると、そのまま吸い始めた。抗議しようとしたが、咳が変になってしまって上手く言えなかった。咳のせいで勝手に涙が出てくる。違うんですよ、一人で吸ったときはこんなことにはならなくて、と脳内で先輩には届かない言い訳をする。

 背中を丸めて呼吸を落ち着かせる。見上げると、煙を纏う先輩がいる。火で先輩の長い睫毛が燃えてしまわないか心配になる。煙草を反対の手に持ち直して、私の背中を撫でてくれる。目が合う。先輩の視線が外れて、灰皿を持って窓からベランダへ行こうとする。私は先輩に付いてベランダに出ようとしたが、サンダルは先輩の分しかない。カーテンと外との間の中途半端なところから先輩。見つめる。ひどく明るい月が底のぬけたような寒さを街に満たしていた。風はゆるく吹いていて、たまに髪がゆれる。先輩は室外機の上に灰皿を置く。煙草を持つのと反対の手を私の頬にそえて、唇が触れるだけのキスをする。苦さも熱さも分からない。

「良い子は煙草なんか吸っちゃいけないよ」「私、子どもじゃないんですけど!」

 拗ねたみたいに言ってみる。「君はココアシガレットでも吸っていなさい」ちょっと揶揄うように言われて、レースカーテンの向こうへやわらかく追い返された。

 シャワーを借りたあと髪を乾かして部屋へ戻ると、先輩はコートを着ようとしていた。「ちょっとコンビニに行ってくる。先に眠っていて」と言って、そのまま行ってしまった。一人で先輩の部屋にいると久しぶりにあえて舞い上がっていたのが少し恥ずかしくなる。ベッドでしばらく待ってみたけれど、私はいつの間にか眠ってしまっていたみたいだった。起きたら先輩は私の隣ですぅすぅと寝息をたてていた。時計が見たくて、メガネを手探りでとる。その時に枕元のメガネケースの横から何かが落ちた。その紺色の小箱を拾い上げる。

「すみません、落としちゃいました」

 ココアシガレットだった。先輩はベッドにおかしを持ち込む人ではないし、私が持ってきたものでもない。枕元へ戻そうとすると、そのお菓子は煙草に比べてあまりにも小さくて軽かった。一瞬、壊してしまいそうだ、と思う。

「良い子の君へサンタさんが来たんじゃないかな」

 布団にくるまったまま、顔もあげずに先輩が言う。まだ少し眠気の残る頭が夢と記憶とを分け終えて、昨日ベランダで話していたことを思い出した。「ありがとうございます」と布団ごと抱えるように抱きしめると、布団の上半分が先輩の形になる。つい先ほどまで共有していた眠りのぬくもりは、すっかり私と切り分けられてやわらかな熱としてそこにあった。私はそれに触れていられるのがうれしかった。

「サンタさんに言いなよ~」

 ケラケラ笑う先輩が腕だけを出して、細い指で私の耳元から頭の形を確かめるように髪をかきあげ、わしゃわしゃと撫でる。いつもより自分の髪が短くて、髪を切ったことを思い出す。

 少しだけ甘えたくて、そのまま布団に潜り込む。床に触れて冷えた脚先が先輩に触れないように折りたたむ。離れてしまう腰へと先輩の腕が回ってきて、私を抱き寄せた。布団の中で向かい合うように抱きしめようとすると、下になる私の手が余ってしまう。それがもどかしくて、私は先輩にすがるように手を絡める。

 そのまま、深い海に沈むようなキスをした。

 "サンタさん”のくれた紺色の箱をあけると、ビニールに包まれたクリーム色の細長い棒が入っている。小さい時に食べたことがある気もするが、煙草のサイズに見慣れてしまったせいかずいぶん小さく感じた。ベランダで煙草を吸っている先輩の指先をなぞるように左手に持って、同じタイミングで咥えてみる。駄菓子特有のチープな口触りで、しかし咥えていると口寂しさが埋まるような感じがあった。キスの余韻を誤魔化すようにしばらく咥えたままにする。煙草を吸う人は寂しくて咥えているのだろうか、と想像する。それだけだったら私はお菓子の方が好きかもしれない。ほんとうは先輩のキスの方がうれしい、降って湧いた恥ずかしさを追い出したくてココアシガレットを噛み砕くと、思っていたよりも甘くて、昨夜のメンソールのようなすっとする後味だった。

「先輩が引っ越しちゃうの、さみしいです」

 ガラスの向こうまで声は届かなかったようで、先輩はこちらを見てはくれなかった。伏し目がちな視線はどこへ向かっているのか分からない。昼間の明るさに溶けてしまって、先輩を彩る魔法のような火の光は見えにくくなっていた。そのまま消えてしまいそうだった。

 先輩が息継ぎをするように煙を吐くと、陽光がその長い睫毛を白く燃やすように照らしていた。私のところへサンタクロースが来た最後の年だった。